「韓国人ゲイの 7 割はタチ」という話を聞いたのだけど
本当なんでしょうか?
という話を友達にしたら、
確かに韓国と中国のゲイはタチが多いらしい。
で、日本、台湾、シンガポール、タイは
ウケのほうが多いのだそうな。
これはやっぱりお国柄なのかな。
父権的なカルチャーを持つ国はやはり男性性を重んじる
→タチが多いのだろうかと勝手に考えてみたり。
個人的に思うのは、文化にも
「男性的文化」と「女性的文化」があるということ。
「男性的文化」を持つ国というのは、
例えば、中国、韓国、アメリカ、イギリス、ロシア、ドイツなど。
「女性的文化」の国というのは、
日本、タイ、フランス、イタリアなど。
まあ、偏見込みで言っているんですが。
で、性意識というのは、生来のものというよりは
文化によって規定されるという面のほうが大きいのかなと思うわけです。
日本について言えば、
日本の文学というのは女性的な繊細な感受性によって育まれてきたと思うし、
武士社会というのも、どことなく同性愛的な世界だよね。
で、そういうものを小さい頃からインプリントされつつ育ってきたら、
そりゃあウケのゲイも多いはずだよ、と思うわけです。
中国とかアメリカというのは、
「マッチョ礼賛カルチャー」を持つ国で、
権力とか闘争とか帝国主義とか、
そういうのに萌える肉食的文化を持っているわけで、
そんなお国で生まれ育ったら、
「男らしい」タチのゲイもじゃんじゃん生まれてくるのだろうなと思う
(まあ、アメリカはウケのゲイも多いだろうけれど)。
何が言いたいかというと、
「タチ」「ウケ」というアイデンティティは、
文化の産物なのだなということです。
いかにもウケウケした日本人ゲイも、
中国で生まれ育っていたらオラオラなバリタチになっていたかもしれないし、
血で血を洗うような父権的中国人ゲイも、
日本で生まれ育っていたら、上目遣いでアヒル口をする
自称ジャニ系のバリネコになっていたかもしれない。
そう考えると、性意識というのは
文化によってどうにでも変わってしまうものなのだろうなと思う。
同性愛者について言えば、
「タチ」「ウケ」というのはきわめて「ローカル」なアイデンティティであり、
「お国柄」によって決められたものなのではないか。
俺は個人的に、
「自分はバリネコです」「バリタチです」という人に
何となく違和感を感じていて、
タチとかウケっていうのは、そんな絶対的なものではなくて、
もっと相対的というか、
関係性とか文脈とか文化によって変わるものなんじゃないかと思うのです。
タチとかウケっていうのは、そもそも
「お国柄」によって決まったものかもしれないし、
俺自身にとっては、性意識というのはわりとファジーというか
相手との関係性によって成立するものなんじゃないかなあと思うんだよね。
まあ、人様の性意識にケチをつけるつもりは全然ないんだけれど、
性意識というのはそのようにファジーなものなのに、
易々と自ら「バリタチ」「バリネコ」だと名乗ってしまっていいのだろうか?
と思ってしまうんだよね。
なんか「もったいない」気がするというか。
せっかくゲイに生まれたんだから、
「バリタチ」「バリネコ」だなんて自分を制限せずに、
もっと性意識を柔軟に広げてみたら面白いのではないかと思う。
つまり一言で言うと、
「リバになれ」ということでしょうか。
というこで、同性愛者のみなさま、
2010年はリバを目指してがんばりましょう。
かつて、パティ・スミスがこんなことを言っていました。
「願いごとが叶わないといいわね」
最近よく思うのは、
自分は「欲望を満たすスパンが短くなった」ということ。
「欲望を満たす」といっても、
別にどろどろギラギラしたものではなくて、
何か言いたいことがあったら
iPhone & Twitter で手短につぶやいてみるとか、
聴きたい曲があったら
Napster か iTunes で探してダウンロードしてみるとか、
読みたい本があったら、Amazon で買ってみるとか、
そういう日々のささやかな欲望のこと。
で、こうやって得た物というのは、
往々にして浪費してしまうんだよね。
Twitter では言葉や気持ちを浪費し、
ダウンロードした曲は、HDD の中に退蔵し、
Amazon から送られてきた本は、
ぱらぱらと眺めて必要な箇所だけ読んだら、
そのまま本棚/古本屋/ゴミ箱行きになったり。
別に Twitter や Napster や Amazon を否定するつもりはまったくないのだけれど、
すぐに叶ってしまった願いは、身につかないものだなあ。
昔は、「願いを叶える」までの期間がもっと長かった気がする。
好きなバンドの CD が出るのを待ち焦がれたり、
好きな作家の新作が発売されるのをわくわくしながら待ったり、
何か実現したい願いがあったら、
スケジュールを決めて、to do を決めて、
中間結果に一喜一憂して、
最終結果で舞い上がったり凹んでみたり。
今は、そういうプロセスをあっさりとショートカットして、
ぱっと欲しいものを手に入れようとしてしまう。
で、そういうことに慣れていくうちに、
簡単に手に入る即物的なものしか望まなくなってきている気がする。
別の言い方をすると、自分は
「欲望を消費している」ように思うのだ。
何か欲しいものや望むことを見つけたら、
それを易々と手に入れて、
その手にした物を味わい尽くすこともせずに、
また次の欲望へと飛び移る。
そして、そんな「欲望ホッピング」を繰り返すうちに、
自分の欲望が「小粒」になってきているというか、
すごくわかりやすくて物理的で
イージーなものになってきている気がするのだ。
欲望の質が下がってきている。
以前の自分は、もっと欲望を「大切にしていた」というか、
易々と欲望を消費せずに、
最初はイージーで自己満足的で
見栄やプライドから出たような欲望も、
より高次の欲望へと「育て」ていたような気がする。
以前の自分は、聴きたい CD があったら、
音楽雑誌で情報を収集して、
きちんと CD 屋に足を運び、
可能であれば試聴して、
財布の中身と相談してから買い、
買った CD は家に帰ってステレオの前に正座して拝聴していた
(もちろん、そうでもない CD も多かったけれど)。
大学入試に際しては、
行きたい大学のパンフレットを穴が空くほど眺め、
日々せっせと予備校で勉強し、
模試の結果にやきもきして、
凹んだり開き直ったりしながら、
天の配剤により、願いが届けられた。
そんなふうに、わくわくそわそわしながら
欲しいものが手に入るのを楽しみにしたり、
最初は「こうなったらいいな」くらいだった思いつきを
胸の中で温めているうちに、願いがすくすくと育っていき、
それらのうちのいくつかは、
もう後戻りできないような、自分を賭けるほどの欲望へと「成長」していった。
今考えると、そんなふうに
「願いを胸で温めていた」時期というのは、
とても充実した時間だったと思う。
そして、今の自分にはそんなふうに
「欲望を育てる」ということをあっさりとショートカットして
結果にすぐ飛びついてしまう、
せっかちな大人になってしまったような気がする。
自分は日々、いろいろなものを消費していると思うけれど、
最も致命的に消費しているのは
「自分自身の欲望」なのではないか。
ガス抜きのように、お金や言葉や日々の思いを消費しているうちに、
自分の中の根源的な欲望のようなものがやせ細っていき、
自分の心を芯から震わせるような、持続的な喜びや幸福や手応えのようなものを、
刹那的な興奮や瞬間的な楽しみとトレードオフしてしまっている気がする。
また、欲望を育てたい。
日々生まれては消える、泡のような欲望を、
より高次で、本質的で、根源的な欲望へと洗練していきたい。
そして、その欲望を追求し、実現していく過程で、
わくわくしたり、へとへとになったり、
諦めたくなってフテ寝したり、
それでもやっぱりやらなきゃと思い直して重たい腰を上げて、
「ああ、やっぱり続けてよかった」なんて思いながら、
いずれは、今の自分には想像もつかないような場所にたどり着きたい。
かつて、自分がそうしていたように。
パティ・スミスの言うように、
易々と「願いが叶わなければいい」と思う。
あるいは、願いを叶えようとするプロセスを経ていくうちに、
自分が抱いていた願いそのものを「追い越して」しまいたい。
欲望を育てていくうちに、
「気づいたらこんな場所に来てしまっていた、どうしよう」
というような、未知の場所へと到達したい。
んー、年甲斐もなく抽象的な理想論を述べてしまいましたが、
2010 年はそんな「欲望育成」の年にしたいなと思う次第です。
ニッチな業界&ニッチな職種&ニッチなプロジェクトを担当している自分の職務スキルは、
全然「つぶしが利かない」んだろうなあ。
もともとビジネスマンとしての社会性ってあんまりないんだけど、
最近それがさらに薄れてきている気がして、
ちょっと危機感を感じている。